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対診に来てくれた練吉のことを気にかけているのだつた。
「えらい昔話が又ぶり返したんだな」
もちろん、むかしから湯治にゆく人があればこそ、どこの温泉場も繁昌していたのであるが、その繁昌の程度が今と昔とはまったく相違していた。各地の温泉場が近年著るしく繁昌するようになったのは、何といっても交通の便が開けたからである。
その外から見れば屋根と築地塀だけのやうな家の前で、三人の男が立つてしきりと話していた。
かういふ目には、あの鬼倉との一件の後でも、多少会つていた。だが、その時も今も、房一は同じやうに何か尻ごみするやうな当惑に近い表情を浮かべ、なるべくその話から逃げるやうにしていた。その表情は、盛子の妊娠のときや道平の病気に際して現れたものに似て、何となく滑稽なところさへあつた。鬼倉の一件も、営林署の消防演習のことも、開業のはじめに彼が空想していたところのもの、あの町の人の心をしつかりと捉み、信頼させるといつた野心の点から云へば、巧まずしてその効果を果すものだと見做していゝ筈であつた。事実、さういふ様子は町の人の態度にはつきりと現れていた。あんなに大勢の人の目前で行はれたことであるのにかゝはらず、出張所で最初に口火を切つたのが神原喜作ではなくて房一であり、解決したのも房一だといふ風評さへ立つていたのである。無責任でもある代りに、どこか一脈の根柢あるかういふ風評は、今何となく房一を漠然と押し立てる方に働いている観があつた。ところが、どういふものか、房一はそれを避ける様子を示したばかりでなく、一種嫌悪の面持を見せた。
「あのう、笹井へ往診がございますが」
「脚気の方は?」
「それとも、あれかね。やつぱり日露戦争のときみたいに、船で吉賀の先の浜へ上つてそれからやつて来るんかね」
が、ひどく不機嫌になつた時にはこの円味が消えてしまひ、あのどぎつい部分々々がばらばらに突出し一層強くなるやうに感じられる瞬間がある。それは理由なく盛子を恐怖させるものであつた。
向ふの方には別の一かたまりがあつて、その中には堂本もいた。彼はさつきからそこに坐つたまゝ一言も口をきかないで、誰かが挨拶する度に慌てたやうにお辞儀を返していた。その隣りには大石練吉が近眼鏡の下で眼をぱちぱちさせながら、今夜もその色白な頬に上気したやうな紅味を浮かべて坐つていた。彼は坐つたまゝ絶えず首を伸して部屋中を眺めまはしていた。入つて来る人を彼は誰よりも先きに見つけた。そして、簡単にひよいと頭を下げてうなづいて見せていた。
云ふなり、ごろりと仰向けにひつくり返へると、新聞を持ち上げ、眼をぱちぱちさせ、やがてうとうとしはじめた。すると、面長な、普通よりもよほど大きい練吉の寝顔には、年に似合はない駄々児のやうな表情が浮んだ。
「君は昨日その九州から来た連中を赤山へ案内して行つたちふぢやないか」
「おい、今高間君が来ていたんだよ」